📱 須弥壇中央の厨子に本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置しています。 強さが内面に潜り、筆毛の抑揚が自在になり、線には含蓄のある意味合いが増し、ゆとりや柔軟性、おおらかさがある中にも凛とした僧の品格が匂い表れています。

2

👌 当時の日本にはこの「東密」と「台密」の2つの密教の流れが出来たのです。

12

📲 かわらけ投げは、厄よけなどの願いを掛けて投げるのですが、それは神護寺が発祥とされているんですね。 また「弘法にも筆のあやまり」ということわざがあるように、当時の字の上手な一人となっています。

15

⚓ 唐から帰国した2人 当時、遣唐使で唐に派遣され、帰国した人材は朝廷に重んじられました。

3

🤭 2 無名僧侶からの叩き上げの天才、空海 最澄に遅れること7年後の774年、讃岐国 現在の香川県 の郡司(地方の役人)の家に生まれた空海は、幼名を佐伯真魚(さえきまお)と言いました。 最澄ものちに密教を取り入れ、 彼の根拠地・ 延暦寺は日本仏教の中心地になっていく。 朝廷は許可はしましたが、あまりの早い帰国のため、809年まで平安京への立ち入り許可をしませんでした。

10

⌛ 最後まで読んでいただきありがとうございます^^. 貞観17年(875年)の銘をもつ梵鐘(国宝)は、序詞:橘広相、銘文:菅原是善、揮毫:藤原敏行の手によるもので、古来〈三絶の鐘〉と称される日本三名鐘の一つです。 それまで仏教と政治がずぶずぶの関係になっていて、僧は政治に口を出し、貴族たちは脱税のために寺院を利用し、国は混乱していたのです。 ・792年 18歳 長岡京 ながおかきょう に来て、大学寮で学ぶ。

7

⚛ 密教については、軽く学んだだけでした。 高野山や教王護国寺などの密教修養道場や教育の場を次々に建立、さらには治水事業や貧民救済などの社会事業も行っていきます。

14