📱 韓国の文学者や研究者が「近代文学の終り」に大きな衝撃を受けて、それに抵抗したのがその証拠です。 しかし、かつて「いいひと」だったが、たった数年のあいだに「ネチネチと嫌み」を言う人になったとはどういうことなのか。 『批評とポスト・モダン』と『隠喩としての建築』が分かれていたとき、あくまで批評/哲学という乖離も往復も、柄谷のスタイルの問題だった。
13😊 この食い違いがなにを意味するかは、のちに私たちが明らかにするところではある。
🤛 あれを書きながら、自分の居場所がわかった気がした。 その費用を配信者と視聴者とプラットフォーム(シラス)でシェアする、できるだけ公正かつ維持可能な仕組みをつくる。 なお大塚は、柄谷のNAM解散断行を肯定している。
16🙂 ほどなくして疲れて背を倒して寝る。
16😭 その度に内容を大きく入れ替えているため、私たちは『郵便的不安たち』のテクストを二種類に分けることができるように思われる。
⚒ つまりこうだ。 『探求II』連載終了後の1989年1月、の発案にと参加する形で横断的な批評誌『』を創刊(1990年4月の第8号で終刊。
2🤫 緊急に小説も書かれた。 英語やその他の言語に翻訳された著作・論文のみを選定し、今までの仕事を「定本」としてまとめた。
💖 それまではテクストを語る中で自分自身の思想を語ってきたが、マルクスが誤ったところを直していくうちに自分で理論を構築せざるを得なくなった、ということだと。 『柄谷行人 浅田彰全対話』(講談社文芸文庫、2019年10月)• もっと、片隅にボロボロのマンガ本が並んでいた昭和の喫茶店のようものも、復活してほしいのである。
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