🙏 大政奉還• そのため日本が内戦状態に陥ることは何としても避けたかったので、土佐藩が主張した建白案にて薩長の名分を失わせるという目的があったのです。 しかしその大政奉還・・・江戸幕府の本拠地「江戸城」ではなく、朝廷・天皇のお膝元である京都の「二条城」で行われています。 一見すると、白旗を挙げたかのように見える大政奉還が、実は徳川家が生き延びる最後の手段だったことがわかってきます。

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😜 他方、・・や幕臣らの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。 やがて1867年9月に慶喜は政務拠点を二条城に移すのです。 岩倉具視が極秘で『討幕の密勅(とうばくのみっちょく)』というのを出してきたのです。

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🤚 著者 安藤優一郎 出版日 2014-05-09 本書は文庫本ですが、内容は一次史料に即した実直なもので非常に読みごたえがあります。 大政奉還後の国家構想 [ ] 大政奉還上表の前日の10月13日、慶喜は教授職を務めたのに対し、の議院制度等に関して諮問を行っている。 その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった。

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👐 これを見ると、諸藩も慶喜の言葉をどう受け取っていいのか迷っていたことがわかります。 元々薩長同盟は土佐の龍馬が世話したうえで出来たものであり、今更幕府につくのは筋が通らないと見たのでしょう。 そう考えた慶喜は、「政治を朝廷に返しても実際に国をまとめるためには徳川家は無視できない。

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😩 私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。

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🤔これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。

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💅 そして慶喜は、大政奉還という偉業を演じた後に、政権担当能力のない朝廷から大政を再委任された上で、幕府ではない、新たな強力国家を建設することを目論んでいたようなのです。 舞台が大広間ではなく黒書院になっている• これが二条城で大政奉還をしている絵と言われていましたが、正確に言うと「大政奉還をしようと思うけど何か意見はないか?」ということを詰問したときの絵と言うことになります。 幕府による政治を維持しようとした場合、戦争になって滅ぼされる可能性が高い。